言言句句ロゴ

『なんでかなの記』のこと

 版元としての思いなどを公的な書籍の紹介文に書くことは、なんとなく避けている。どこの誰とも知らない人間にのっけから本の読み方や意味合いを定義されることは、読み手にとって苦痛だろうからだ。そこで、好きなだけ好きなことを書けるこのこじんまりとした場所に、本書発刊までの経緯を交えつつ思いのたけ(?)を記すことにした。案の定、3000字超とたいへん長くなってしまったこと、どうかお許しいただきたい。
 (しかし、しゃべらないなと思えば、いきなり饒舌になったりする。われながら、まことになんでかな……である。)

「これは出さなくては!」

 そもそものきっかけは、大学時代のクラシックギターサークルの後輩であり、音楽系をメインとするフリーの編集者でもあるO氏だった。
 先の投稿で記したように、『日本プロ野球の歴史』(大修館書店)の編集作業が終わってしばらくした頃、同書デザイナーであるイトウコウヘイ氏の誘いで神宮球場に行った。その時にO氏とも久々に会って近況などを報告し合った。「忙しさにかまけてばかりだったが、そろそろ1冊目の刊行に向けて進んでいきたい」と雑談めいてO氏に話した、その翌日の連絡だった。
「実は、濱田滋郎先生の書籍を発行してくれる出版社を探してるんです。高宮さんのところから発行の可能性はあるものでしょうか?」

 突然の、そしてこれ以上なくありがたいお話だった。
 自分は、残念ながら濱田先生にお会いできる機会がなかった。しかし、趣味としているクラシックギターのコンサートの曲目解説、CDのライナーノーツ、ギター専門月刊誌『現代ギター』での音楽評やインタビューなど、本当にあらゆる場所で「濱田滋郎」というお名前と文章を目にしていて、「なんて愛のある文章を書かれるお方なんだろう」と、ひそかに一ファンを自認していた。O氏はそんな濱田先生と長らく仕事をともにしており、数冊の著書の編集にも携わっていた。その過程で、名高きフラメンコ専門誌『パセオ』に連載されていた「なんでかなの記」のことを知り、心に留めていたとのことだった。
 さらに、濱田先生は、言言句句がこれから積極的に取り組んでいきたいと考えている児童文学や海外文学などともつながりが深かった。『泣いた赤おに』などで知られる童話作家・浜田廣介のご子息であり、ご自身で児童向けに『ドン・キホーテ』などを抄訳したりもしている。また、フォルクローレの巨星で詩人でもあるアタウアルパ・ユパンキの小説『インディオの道』を翻訳したり、ロルカに格別の思い入れがあったりもする。

 ただ、ごくごく小さな出版社、それも1冊目である。どうしても気持ち慎重にならざるをえない事情はあった。しかしそんなことも「なんでかなの記」「父」(ともに本書に収録)の元記事を拝読して、一発で吹き飛んでしまった。
 たんに事実をふり返っただけの回顧録ではない。ごく個人的なお話でありながら、誰にでもある「懐かしさ」とか「喜び」「悲しみ」とかそういった感情の奥底に共鳴する普遍性をもった、心にせまる、いや心に寄り添う文章だった。これは出さなくてはならないと思った。

本は何を保存するか

 本書には、いくつかの切り口がある(と思っている)。
 一つめは、評論家としての“濱田滋郎”だ。これについては、文章を読んで「あの音楽や音楽家への愛のある評論はここから生まれたのか!」と、心から腑に落ちた。評論が生まれた場所、いわば評論の原風景をここまで心地よく散策できることはとても新鮮で、評論の内側に流れる温かい「血」の部分までリアルに感じ取ることができた。
 濱田先生が書いてきたすべての音楽評論を横糸とするなら、それを縦糸でつなぐような本になると思った。濱田先生の遺したすべてのお仕事にとって、本書は大切な役割を果たすだろう。

 もう一つは、一人の人間としての“濱田滋郎”だ。自分自身、言葉を選ばずに言えば、原稿の出だしからすぐに濱田先生が大好きになってしまった。好きなことをとことん突き詰めながら、多くの方々とのかけがえのない出会いを経て駆け抜けた半生には、一読者として励まされた。そしてそれを決して驕らず「なんでかな」とふり返る、ユーモアと謙虚さ。
 「なんでかな」という問いは、自分自身の人生に照らしてみても根源的な問いだ。すべてが説明できること、コントロールできることばかりではない。でも、そんなあいまいさこそが人生を新たな地平に進ませる原動力となっている。会社勤めをやめ、いっそうその思いが明瞭になった。本書を読んでいると、「こういう生き方もあっていいんだ」と、憧れとともにどことなく自身を肯定されたような温かい気持ちが湧き上がってくる。

 また、あえて別の切り口を挙げるならば、ご家族のことも一つの大きな骨組みとなっている。特に父・浜田廣介との心温まるエピソードは数多い。「ひろすけ童話」が生まれる現場を見ながら育ったからこそ、濱田先生の文章はこうも読みやすいのだとわかる。追補として収録した「父」は、浜田廣介の逝去に寄せて書かれた追悼文である。二度と戻れない日々への追憶の念が切実で、愛情と哀しみは表裏一体なのだということが痛いほど伝わってくる。
 さらにその後「あとがきにかえて」として、濱田先生のご息女で悲喜こもるカンテ(歌)の名手でもある濱田吾愛(わかな)氏に、「父・濱田滋郎」をテーマとした文章をお寄せいただいた。濱田先生を髣髴させるユーモアや温かさに満ちたまなざしで、自然体の親子の絆がとても爽やかな読後感につながっている。多大なるお力添えに、感謝をしてもしきれない。

 有形の仕事は残っても、無形の人柄は残りづらい。濱田先生は今から3年半ほど前に逝去されてしまったが、本書はそんな濱田先生とじっくり語り合えるようなものとして、ぜひ手元に置いていただけたらと願っている。

佇まいで表現する

 O氏が元記事の収集に尽力してくれていたこともあり、編集作業は「それをどのような形の本にするか」ということに労力を割くことができた。そこで多大な協力をいただいたのが、ブックデザインのイトウコウヘイ氏(合同会社デザイン経営)と、イラストレーターのくまじん氏だ。
 本書を制作するにあたっては、「フラメンコやクラシックなどの音楽好きな方のみならず、一般の方に手に取っていただける本にしたい」という思いがあった。多くの人の「核」となる部分に響く文章だという手ごたえがあったからだ。また、たんに過去を振り返るだけの話ではなく、今の人が読んでも深く共感できる話だということも伝えたかった。
 そこで、ある種の古さや固さなどを感じさせる要素をできるだけおさえ、濱田先生の優しくほのぼのとした間合いのある語り口、そして誰もが何となく心の中にもっている原風景のようなものを、ゆったりとした組や装丁などで表現することにした(装画にはどことなく、濱田家ゆかりの清里の風景を思わせる要素も取り入れた)。結果、手前みそではあるが、その雰囲気を本という「モノ」によく綴じ込めることができたと思っている。
 O氏、イトウ氏、くまじん氏ともに、もともと自分と縁の深い人物である。そうした身近な人々の力を多分に借りながらここまでこぎつけたことは感無量で、感謝しきりだ。関わっていただいた全員にとって思い入れある本となっていたら、それ以上のことはない。

 夏の終わりというにはまだまだ早い8月末。「寒くなる前に」と、吾愛さんが清里の地をご案内くださった。時折雨も降る中、2日間にわたり温かく親身にいろいろとお教えくださり、家族全員で本当にお世話になった。濱田家の別荘近くには、装画にもある柏の樹がこんもりと立っていた。
 「昔、雷に打たれてあんな形になったみたいです。生命力がありますでしょう。あれを見ると、『ああ、清里に着いたな』と思うんです」
 濱田家の大切な思い出である清里の風景にじかに触れ、物語の中を旅しているような不思議な感覚に陥ったものだった。
 本書を発刊できたことで、出版社としての流通などのしくみも整い、多くの新たなご縁にも恵まれた。これは、感傷に浸っているわけではなく、本当に濱田先生に助けていただいたのだと思っている。自分も含めて人はいつか死んでしまうが、自分自身、本書をつくることで濱田先生に初めてお会いできたような気がしている。本には、そういう力がある。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: